2017年8月31日木曜日

英紙ガーディアン【訃報】長崎原爆投下を生き延びた反核活動家、享年88歳で死去


長崎原爆投下を生き延びた反核活動家
享年88歳で死去

米国の原爆を体験し、核軍縮を訴える活動をしてきた谷口稜曄が癌で死去した

米国が日本の都市に原爆を投下したとき、谷口稜曄は齢16歳だった。Photograph: Eugene Hoshiko/AP
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AFP通信東京支局 Agence France-Presse in Tokyo
2017830

1945年に米国が原爆を投下したとき、長崎で郵便を配達していた著名な核軍縮活動家が享年88歳で死去した。

長崎と広島の原爆投下による被爆者を代表する団体、日本被団協[日本原水爆被害者団体協議会]によれば、かつてノーベル平和賞の受賞一番手と目されたことのある谷口稜曄〔たにぐち・すみてる〕が、日本南西部の都市にある病院において癌で死去した。

原爆が投下されたとき、16歳だった当時の郵便配達員は、背中と左腕に恐ろしく重い火傷を負い、それが快癒するまで何年もかかった。

少年は、爆心地から1.1マイル(1.8キロ)の地点で自転車に乗っていた。

彼は2015年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、次のように語った――

「突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩きつけられました。しばらくして起き上がってみると、わたしの左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。

「真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人……一晩中火の海でした。地獄でした」

米軍が病院で回復中の彼を撮影し、溶けた肉が痛々しい板のようになった背中全面の画像が世界に向けて配信されたとき、彼は原爆後遺症患者を代表する初期の数少ない顔のひとりになった。

原爆投下後の3年半、入院していた谷口は、やがて著名な軍縮運動活動家になり、日本と海外でみずからの体験を語った。彼は2003年のAFP通信によるインタビューで、次のように述べた――

「わたしは、人びとが、特に若い世代の人たちが関心を失いはじめているのではと恐れています。若い世代には、核兵器が人類を救うことが決してないことを忘れないでほしいと思います。核の傘がわが国を守ってくれると信じるのは幻想です」

米国は194586日、最初の原子爆弾を広島に投下し、約140,000人を殺した。この死者数には、爆発そのものでは生き残ったものの、まもなく重度の放射線被曝で亡くなった人びとも含まれている。

米国はその3日後、港町、長崎にプルトニウム爆弾を落とし、74,000人を殺した。

【クレジット】

The Guardian, “Nuclear campaigner who survived Nagasaki bombing dies aged 88,” via Agence France-Presse in Tokyo, posted on Wednesday 30 August 2017 at;

【国内ニュース】

毎日新聞【訃報】
反核運動を主導 長崎で被爆
 長崎で被爆し、国内外で核廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の谷口稜曄さんが30日、十二指腸乳頭部がんのため長崎市内の病院で亡くなった。88歳だった。通夜は31日午後7時、葬儀は9月1日午後1時、同市光町16の18の平安社長崎斎場本館。自宅は同市大鳥町15の33。喪主は長男英夫さん。

 長崎の被爆者運動の象徴的存在だった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の谷口稜曄さん(88)が30日、亡くなった。長崎原爆で背中一面を焼かれた自らの写真を示し、国内外で核兵器の恐ろしさを繰り返し訴えてきた谷口さん。念願だった核兵器禁止条約が7月に国連で採択されたことを喜びながらも、進展が見えない核兵器廃絶の行方を死の直前まで気にかけていた。

【評伝】
 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員などを務めた谷口稜曄さんが88歳で亡くなった。米国による長崎への原爆投下から72年。1945年8月9日を生き延びた被爆者として、果たすべき役割を絶えず自らに問い、核兵器廃絶と平和な世界を願って発言、行動し続けた人生だった。

【当ブログ内記事】

2015831日月曜日
…この計画は、死者70,000人を出した19458月の長崎市に対する原爆投下を記念する先日の式典で批判された。被爆者のひとり、86歳の谷口稜曄さんは、安倍氏の新法制を容認できないと語った。

2015810日月曜日

201587日金曜日

わたしは16歳でした。爆心地から約2キロですね。2キロのところを自転車で走っていて、後ろから灼かれました。わたしは被曝してから37か月、病院で生活しました。19か月はうつぶせのままで過ごしました。




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